お仕事を探している時の選択基準ってたくさんありますよね。お給料に、勤務時間、人間関係や仕事内容…。クリニックで働くとなると、院長はどんな人かも気になります。私もそうでした。
先日、院長の思いをまとめた手記を院長直々に頂き、「是非、私の思いをブログにまとめて欲しい」とのお話を頂きました。その原稿なんとA4用紙17枚分!読んでみると、足掛け7年のお付き合いの私でも始めて知る話があり、とても興味深いものでした。

当院で働く事をご検討中の方には、是非とも読んでいただきたいと思える内容でした。原稿をほぼ生かした記事となっておりますので、お時間のある時にお付き合いいただければ幸いです。
院長の生い立ち


院長の幼少期(実際の写真)
こんにちは。あつた皮膚科・美容皮膚科クリニックの院長 佐々木良輔です。
今回は、私が生まれてから現在に至るまでの歩みをお話しします。持病と共にあった幼少期、無気力だった思春期、そして今、このクリニックにどのような思いを込めているのか。その軌跡をありのままにお伝えしたいと思います。
私は、三重県伊賀市ののどかな場所で生まれ育ちました。幼い頃からアトピー性皮膚炎と喘息を患い、皮膚科が少なかった当時は内科医の父が選ぶ薬を塗っていました。しかし、あまりいい状態を維持する事はできず、スイミングスクールの着替えで血に汚れた衣類を見られるのが、とても恥ずかしかったことを覚えています。
夜間の喘息発作では、上野市民病院の救急の先生にお世話になったことを今でも覚えております。夜間でも対応してくれることは本当にありがたかったと思います。
また、私は非常に厳格で教育熱心な家庭で育ちました。父は子供を点数や順位でしか評価しない親でした。小学校に入ると学校でも塾でもテストでは1番を強いられ辛かった記憶があります。私立中学に入っても状況は変わりませんでした。次第に「何のために学校へ行き、何のためにテストを受けるのか」 その意味を見失った私は、中学2年生になる頃には、ただ親から逃げるように毎日を過ごしていました。
無気力だった思春期時代

『何のために生きていけばよいのか分からない』
当時、親からのプレッシャーといわゆる思春期が重なり、半不登校になった時期があります。ほとんど毎日、遅刻・早退を繰り返し、ときには欠席して、何をするわけでもなく、だた家で寝ていました。そんな無気力な時間を3年ほど過ごし高校2年生の夏を迎えます。
「もう、学校を辞めよう」
そう決意して父に伝えた時、意外な反応が返ってきました。「中卒で生きていくより、高校だけは卒業しなさい」それは、生まれて初めて父からかけられた、成績に関係のない「優しい言葉」だったように思います。その一言をきっかけに、「それなら、学校だけは行ってみようか」と、私の止まっていた時間が少しずつ動き始めました。
将来を考え始めた私は「どこでもいいから、勉強せずに入れそうな大学へ行って、適当に就職して生きていこう」と、漠然とした希望を父に伝えました。すると父は、これまでの優しさとは打って変わって、こう言い放ったのです。 「将来の仕事に繋がらない大学へ行くなら、学費を出すつもりはない」普通なら、突き放されたと感じて反発するところかもしれません。しかし、当時の私には、不思議とその言葉がスッと胸に落ちたのです。父は、私の「人の面倒を見ることが好き」という本質を見抜いていたのかもしれません。
当時は、学校の先生や新聞記者といった職業にも興味を持ち始めていました。ですが同時に、小さいころにから悩まされていたアトピーという病気を治すことはできないだろうか、と考えるようになったのです。
医学部に進むことを決め、高校2年生の2学期からは学校に行くようになりました。ですが、急に授業を受けても理解できるわけがありません。高校1年生の教科書を一人で初めから読んだり、友人からノートを借りて写したりしながら、どうにかこうにか、浜松医科大学の医学部に合格することができました。
当時から、目標に向かって突き進む力は誰よりも持っていた様に思います。
医師としての原点

そうして、晴れて医学生になりました。医学部は6年間ありますが、当時の私は、精神的にも経済的にも親の影響から離れ自立し「一日も早く卒業して社会に出たい」という気持を人一倍もっていました。転機が訪れたのは、大学5年生のときです。大学病院の皮膚科の先生からアトピー性皮膚炎と免疫に関する研究の話を伺う機会があり、 その内容は、私が高校生の頃に抱いていた『アトピーで悩む人を一人でも減らしたい』という想いと深く繋がるものでした。そして 「アトピー性皮膚炎の研究をする医師になりたい」と再度強く思うようになったのです。
研修医の2年間では千葉徳洲会病院や徳之島徳洲会(離島)で総合診療や救急医療を身に着けました。皮膚科医になる前に、一人の医師でありたいとの思いから、短い研修期間の間にできる限りの医師としての技術を身に着けようと必死に勉強しました。
その2年間で身に着けた皮膚科以外の診療科の知識・経験が今でも役に立っています。
研修医を終え、藤田医科大学の皮膚科に入局し、アトピー性皮膚炎をはじめとするさまざまな皮膚疾患について広く学びました。
また、手術やあざに対するレーザー治療も担当し、臨床経験を重ねました。更に、東京女子医科大学 青山女性医療研究所にて、美容医療について学ぶ機会にも恵まれ、皮膚科・美容皮膚科の両面から診療・研鑽を深めることができました。
ここまで読むと、研修医時代は順調に歩んできたように見えるかもしれません。でも、現実はそんなに上手くいくものではありませんでした。
私の医師人生の根底には、今も消えることのない、そして今思い出しても胸が締め付けられるような記憶があります。
肺炎患者さんとの出会いと別れ

これは私の医師人生で最も深く心に残る、医師としての礎となる体験の話です。
学生の頃からアトピーを治す研究者になりたいと思っていた私ですが、当時の皮膚科の助教授だった先生に『皮膚科に来る前に一般の病院で内科や救急を身に着けてから皮膚科に来なさい』と言われ、大学病院ではない浜松市内の病院で研修をすることにしました。
しかし、ここでの研修の内容は9時~5時の仕事、夕方以降は接待や先輩医師宅での食事会、研修はほぼ見学のみ、と学生と同じような毎日で、辟易としていました。
見学だけでなくもっと実践的な研修をしたい、このまま皮膚科の道に進むと後悔する!研修中の2年間で内科や救急医療を身に着けたい、と思った私はたった4か月で研修病院をあっさり辞め、千葉徳洲会病院という救急車の受け入れ台数が多い病院で研修を再スタートしました。
それから1年間、3日に1回、洗濯のために家に帰る以外は救急外来と病棟で過ごす毎日でした。心臓のエコー、腹部エコー、造影CTの画像診断、人工呼吸器の管理、CVカテーテル、胸腔ドレーン、腰椎穿刺などの手技、英語論文の翻訳発表、学会での症例発表など、任せてもらえそうな仕事はとにかくやらせてもらいました。
さらに、鹿児島県にある徳之島という離島の病院へ2か月間赴任し、一人で救急、外来・入院患者さんの対応、島外の専門医による手術の麻酔などを任せてもらい、総合診療・救急は一人でできると自信がつきました。(当時は研修医2年目でも一人で主治医をしていることがありました。)
当時を振り返ると、少し調子に乗っていたと思います。
研修医2年目後半、呼吸器内科の研修をすることになり、そこでAさんという56歳の患者さんに出会いました。
Aさんは数日前からの熱と咳で呼吸器内科を受診し、肺炎という診断で入院になった方で、私が主治医に任命されました。
当初私は、肺炎なら上級医の指示通り抗生剤の治療をすれば治る、と気軽に考えていました。
入院翌日には、Aさんと30歳くらいの娘さん、3、4歳くらいの男の子のお孫さんを病棟の面談室に呼んで「軽い肺炎なので抗生剤で治療開始します。2週間くらい入院が必要です」と説明しました。
しかし予想に反して、Aさんは一向に熱は下がらず、白血球もCRPもさらに上がっていきました。
追加で細菌以外の感染症の検査を一通り行っても何も出ない。検査結果を確認している数日の間にCTで肺はどんどん白くなっていきました。
入院して1週間くらいたったところで、「感染症による肺炎ではないアレルギー性の間質性肺炎だ」と思い至りました。
そこからは、ステロイドパルスを開始しましたが全く収まる気配がありません。論文を調べて、エンドキサンパルスを続けて行いましたが収まらずシクロスポリンを追加、自分ができるあらゆることをやりました。
しかし日を追うごとに、肺のCTはどんどん白くなっていきます。どんなに調べても、考えられる検査、治療をしても良くならない・・・・。もうやれることがない。

だんだん、私はAさんやいつも小さなお孫さんと一緒に来る娘さんと面談室で話すことがつらくなっていきました。父親の治療を自分より年下にみえる医師が行っていることに、30歳くらいの娘さんは頼りなく思っているんじゃないだろうかと考えたりしました。
そして入院して2週間たった頃、ついにAさんが息苦しさを強く訴えるようになりました。CTでは肺全体が真っ白。面談室への移動もできない状態でした。
次第に呼吸が辛くなっていくAさんと娘さんに、私は人工呼吸器をつける提案をしましが、Aさんは『娘と孫と最後まで話したいから付けたくない』と拒否されました。
教科書には、「間質性肺炎の終末期、呼吸が苦しい時にはモルヒネで緩和しましょう。呼吸抑制が起こりにくい。」と書いてあり人工呼吸器の使用は肯定的には書かれていませんでした。
私は、Aさんのために、息苦しさを取ってあげたいが、それ以上に話ができる状態を少しでも長くとってあげたいとも思いました。
「息ができない。息ができない。」と訴えるAさんの様子を目の当たりにして、息苦しいのは痛みよりずっと悲惨だと感じました。
Aさんの苦悶の表情を見てモルヒネの投与スピードを徐々に増やしていきました。でも全く苦しさが楽になっているようには見えません。途中から私は自分の手でモルヒネの入った注射器を押して一気にいれました。それでも意識ははっきりしているし、苦悶の表情のままです。呼吸抑制が来るかもしれないが少しでも苦痛を和らげようとフェンタニル(鎮痛・鎮静剤)も静注しました。それでもずっと息苦しさを訴えていました。専門書も論文も全く役に立ちません。今更だけど人工呼吸器をつけるべきなのではないかと悩み初めたとき、3時間後に、Aさんは亡くなりました。
それまでも痛みや倦怠感、意識状態が悪くなって最期を迎える方は沢山見てきましたが、息苦しい状態で死を迎えるというという方の担当することは初めてでした。
Aさんの最期が頭から離れず、自分の診断に見落としがなかったか、もう2,3日早く間質性肺炎の治療を始めていたらどうだっただろうか。苦しまないために強く人工呼吸器を勧めていたほうがよかったのではないかと悩みました。
それから3か月後、私の2年の研修医生活は終わりました。送別会の席で、私は呼吸器内科の部長のI先生にAさんの治療に間違いがなかったか悩んでいることを打ち明けました。I先生は「難しい症例を一人で任せて悪かったね。自分が主治医でも同じことをしていたから何も言う必要がないと思っていた。」と言ってくださいました。
それが事実なのか、私を楽にしようと思っていったのかは分かりませんが、その言葉でこの経験を前向きに捉えることができるようになったと思います。
皮膚科医になってからも、皮膚筋炎で急速進行性の間質性肺炎を起こすという症例発表をときどき聞きます。皮膚筋炎の中でも非常に稀ですので、皮膚科に携わってから17年以上たちますが一度も出会ったことはありません。
Aさんには皮膚筋炎の症状はなかったですが、顔が赤い、体がかゆい、手がごわごわの方がいたら今でもAさんのことが頭によぎり、過剰でも皮膚筋炎を疑って診察をしています。
皮膚は目に触れる部位のため、いち早く体の異常を示してくれる事が少なくありません。皮膚にでた症状のうらに隠された重大な疾患を見逃さない、それが、Aさんから私に与えられた役割なのだと思っています。

実は、この話をすると、今でも涙が込み上げてきてうまく話せなくなります。格好悪いから本当は隠しておきたいけれど、それでもあえて、クリニックのみんなが集まる場で話をしました。これが私の「原点」だからです。この肺炎患者患者さんを受け持っていた当時、私はまだ25歳でした。
これからその年齢を迎える20歳前後のスタッフには、仕事をしていれば、いつかこういう経験をすることもあるんだと知っておいてほしかった。 そして、すでに現場で経験を積んできた30代から50代のスタッフには、医療従事者として同じような、辛く、悲しく、苦い経験をどこかで抱えているのではないか、そんなことを思いながら、私の不器用な告白を聞いてほしいと思っていました。私という人間を知ってもらうために。 そして、私たちがここで何のために向き合っているのかを、一緒に考えるきっかけになればと思ったからです。
あの日の無力さと、自分の中に残った消えない悔しさ。「もう二度と、実力が足りないという理由で目の前の人を諦めたくない」という一心で、私は歩き始めました。
その後、私は大学病院での勤務を経験します。そこで最先端の医療に触れ、研鑽を積む中で、私の中に「ある一つの確信」が芽生えました。それが、今のクリニックの誕生へと繋がっていくことになります。
なぜ私は、大学病院ではなく、この街のクリニックという場所にこだわったのか。
次は、名古屋で理想の皮膚科をゼロから作り上げることになった、当時の決断についてお話しします。
熱田区・中川区との出会い 開院の動機
2015年 熱田区に開院した当時のクリニック外観
私は以前、熱田区近隣の病院で勤務していたことがありました。その際に、この地域の皮膚科医療の現状を目の当たりにし、衝撃を受けました。大学病院では当たり前となっている最新の知見に基づく診療や治療が、地域のクリニックではまだ十分に行われていなかったからです。もちろん、すべてのクリニックがそうだというわけではありません。
しかし中には…
・接触皮膚炎やアトピー性皮膚炎を、すべて「蕁麻疹」として診断し、内服薬のみを処方する
・ステロイドだけを長期使用し、プロトピックなどの選択肢を提示せず、毛細血管拡張が悪化してしまう
・脂漏性角化症や黒子に対して診断をせず「腫瘍です」とだけ伝えて紹介状を出す
・老人性色素斑、肝斑、ADM(後天性真皮メラノサイトーシス)を区別せず、すべてにIPLを照射する
といったケースも見受けられました。
私は、このような診療では、患者様にとって質の良い医療とは言えないと感じたのです。
そこで私はこの地域にクリニックを作ることを決意しました。
クリニック開院
開院当時のクリニックのコンセプトは『大学病院と同じレベルの治療を気軽に受けられる皮膚科』でした。かつ『大学病院ではカバーできない美容皮膚科診療も選択できるクリニックを作りたい』という思いものせて、2015年に当院を設立いたしました。住宅街にあるアパートの1階で、小さなクリニックとしてのスタートでした。はじめは、1日20~30人程度だった患者数も、地域の皆様の口コミやスタッフの頑張りのおかげで、2,3年で1日100~200人になり、その後も頑張れば頑張るほど、たくさんの患者様が来院してくださるようになりました。患者様・地域の方を大事にし、「当たり前のことを当たり前に行う」ことを続けた結果、開院してわずか3年で、市内において最も患者様が集まるといわれるまでに成長しました。その後、2020年8月に現在の場所へ拡大移転し、2025年7月には美容棟を増築オープン。さらに2027年秋頃には、分院の開院を準備しております。
しかし、開院後すぐにスタッフみんなが同じ方向を向いて取り組めていた訳ではありません。
患者様増加に伴い、駐車場のトラブルや電話対応など、診療以外の対応にも追われるようになってきました。もちろん、患者様への診療には一切手を抜くことができないと考えていた私は、スタッフへの指導もそのように徹底していました。その結果、私自身もスタッフも次第に疲弊し、待ち時間が長くなるなどの影響が出はじめ、クレームをいただくことも増えてきました。焦った私は、少しでも余裕をもって診療するため新しいスタッフを積極的に採用しました。
定着しないスタッフと離職率の増加

しかし、スタッフの人数が急激に増えたことで、意識の統一が難しくなり、院長である私が望むような対応が現場で徹底されないこともでてきました。
「もっとこうしてほしい」と何度も伝え、改善のためのPDCAを回しているつもりでしたが、私の細かい指摘や要望がスタッフにとっては負担となり、結果として短期間で退職してしまう方が続出してしまいました。
その後も、看護師や医療事務の方を新たに採用しても、またすぐに辞めてしまう――そんな悪循環から、なかなか抜け出すことができずにいたのです。
上司にとって部下が離職することは、辛いことです。
スタッフからは『院長は何を考えているのか分からない。』『ついていけない』と言われてしまい、自分の至らない点を反省する日々でした。
マニュアル・ルール整備

なんとかこの状況を脱しなければと、マニュアルやルールをできるだけ詳しく整備することに取り掛かりました。
これが功を奏し、業務はスムーズに進むようになりました。また、同じ頃コミュニケーションが上手なスタッフも増え、その中からリーダーとなるようなスタッフも現れました。それぞれの部署が一つのチームとして互いに協力して仕事ができるようになったことで離職率も下がり、次第に安定してきました。
離職率低下の先の問題点

しかし、職場に長く勤めるスタッフが増えてきたことで、また新たな課題が見えてきました。
不平不満や愚痴を言い合うような雰囲気が一部に生まれたり、たくさん患者様が来てくれるのが当たり前のように感じているようなスタッフも出てきました。単純に診療時間が過ぎているからと、自分に余裕があっても、マニュアルに書いてあるからと患者様への配慮の言葉もなくお断りしてしまう場面も見られたりするようになってきたのです。
さらに、新人スタッフのスキルがなかなか上がらず、教育がうまくいかないという悩みも生じていました。
当時、ミッション・クレドには、「チームワークを大切にしよう」「不平不満・愚痴を言わない」という価値観を掲げていました。にもかかわらず、ベテランスタッフの中にも、その理念に反するような言動が見られるようになってしまったのです。
私が作ったミッション・クレドは、私の一方通行で一緒に働くスタッフに意図が伝わっていなかったのです。
私たちは、一つのチームです。
全員が同じ方向を向き、心を一つにして患者様と向き合っていきたい。
そのためには、スタッフ全員が共通の認識を持ち、日々の行動や判断の軸となる、覚えやすく心に残るミッションが必要だと感じました。
そこで今度はスタッフが中心となってミッションを作ってもらうようお願いしました。
みんなの思いが一つになれるミッション 〜トップダウンの終焉〜

クリニックを開業して10年目。初めて、スタッフが主体となってミッションを作ることになりました。
それまでは、ミッションとは組織のトップが決めて全員に伝えるものだと考えていました。しかし、全員が一つのチームとして進んでいくためには、全員が共感でき、心に響く言葉でなければならない。そう考え直したのです。
以前は「大学病院と同じレベルの治療を気軽に受けられる皮膚科にする」ことを掲げていました。しかし、これでは医師以外の職種が何をしてよいのか分かりにくい面がありました。また、知識や技術を磨くだけでは、本当のプロにはなれないことにも気づきました。
患者様の悩みに寄り添うからこそ、創意工夫や勉強の質が上がり、結果的に「本物のスキル」が身につく。目の前の患者様のために考え抜き、スタッフ間で話し合い、さらに良い方法を生み出す。この繰り返しこそが、真のプロを育てるのです。
そこで、「本気で患者様を治すことを通して、患者様だけでなくスタッフ自身もやりがいを感じたり、幸せを感じられるようにする」という私の思いを伝え、まずは全職員でワークを行い、自由に案を出し合いました。
その後、出されたたくさんの言葉を幹部スタッフが丁寧に整理し、何度も書き直して、ようやく辿り着いた想いがあります。
「患者様の人生をより良いものにする。そして、スタッフ自身も幸せになる」
この、みんなの切実な願いを込めた想いを、さらに日々の合言葉として大切にできるようにしたのが、今のミッションです。
クリニックのミッション
「健やかな肌と健やかな人生に貢献する」
この「健やかな人生」という言葉の中には、地域の皆様や患者様、そして大切にしているスタッフへの想いが込められています。
私たちのクレド(行動指針)
このミッションを実現するために、私たちは以下の7つの行動指針を定めています。これらは患者様のためだけでなく、働くスタッフの人生も豊かになることをイメージして作りました。
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また受診したいと思われる接遇・治療を行います
患者様に笑顔で丁寧な対応を心掛けましょう。 -
不平不満、愚痴や悪口は言いません
不機嫌や無関心もよくありません。ポジティブな思考でいましょう。 -
患者様のお待たせ時間を減らします
待ち時間短縮のため、常に改善意識をもって行動しましょう。 -
院内を清潔に保ちます
景観を整え、患者様が過ごしやすい環境を保ちましょう。 -
週次報告、連絡相談をこまめに行います
事実と解釈を分けて考え、共有し、ミスやトラブルを最小限にしましょう。 -
プロ意識をもって働きます
名古屋の皮膚科といえば当院と思っていただけるよう、患者様が良くなるために一人ひとりが真剣に考え、向き合いましょう。 -
チームワークを大切にします
部門・職種を超えて助け合える環境にしましょう。
今では、国内の診療ガイドラインに載っていないような最先端の治療にまで目を向け、海外の論文も積極的に学び、実際の診療に取り入れています。 『本気で患者様を治す』プロフェッショナルでありたいと、常に努力を続けています。
目の前の肌の先に、あなたの「一生の幸せ」を見据えて

私が見ているのは、診察室にいる「今」だけではありません。
「今、治して終わり」ではなく、皮膚科の治療と正しい知識を通して、その後の人生もずっとハッピーで幸せでいてほしい。今の治療が、10年後、20年後もあなたを支え続ける。そんな「一生モノの幸せ」を、私は提供したいと考えています。
それは、単に長く通っていただくということではありません。
それぞれの年代には、その時にしか分からない切実な肌の悩みがあります。
たとえば、乳幼児のアトピー性皮膚炎は、薬で治療することでかゆみが軽減し、ぐっすりと眠れるようになります。睡眠が安定することで成長障害を防ぎ、将来的なアレルギー疾患(アレルギーマーチ)への進行を抑えることにもつながります。このように適切な治療が、子どもの将来の悩みを減らし、健やかな成長をサポートするのです。
また、思春期のニキビは、跡が残ることで外に出るのをためらうようになるなど、性格にまで影響します。早期に適切な治療を行うことは、見た目の改善はもちろん、心の健やかさも守り、明るい人生に貢献することに直結します。
成人の方にとっても、「肌をきれいに保ちたい」「若々しさを維持したい」という願いがあります。くすみ・しみ・しわ・たるみなどを改善することで、見た目だけでなく気持ちも若返り、活動的になり、結果的に体も健康的になります。
ここで私たちが使う「肌」という言葉は、単にアトピー性皮膚炎やニキビなどの病気の治療だけを指しているわけではありません。全身疾患の指標としての皮膚症状から、病気ではない皮膚のお悩み全般に関わるという意味を込めています。
見た目がきれいになると、気分も明るくなり、外に出かけたり人に会うのが楽しみになったりします。肌の悩みを抱え、失望や不安の中で日々を過ごしている患者様の中には、長い治療期間を経ても改善が見られず、人生の大切な時期に自信や笑顔を失ってしまう方も少なくありません。
たとえば、複数の医療機関を受診しても改善せず、円形脱毛症に苦しんでいた小さなお子さんが、当院での治療を始めてわずか2ヶ月で新しい髪が生えはじめ、その小さな手で髪にそっと触れながら、ご家族と喜びを分かち合う――。
そんな瞬間を支えることこそ、私たちの存在意義です。
同じ患者様をずっと診ていくことで、長期的な視点から、本人の悩みや疾患に寄り添い、支えていくことができます。患者様の人生に寄り添い、美しさと健康を支えることで、患者様が笑顔になる。そして私たちスタッフにとっても、人の役に立てたことを実感することで心が豊かになります。
赤ちゃんからご高齢の方まで、ライフステージごとの悩みに寄り添い、「正しい知識」をお伝えし続けること。それが患者さんの10年後、20年後の未来をハッピーで幸せなものに変えると信じています。
「健やかな肌と健やかな人生に貢献する」 このミッションを胸に、私たちはあなたのこれからの歩みに寄り添い続けます。
また行きたいクリニックに

2020年に開院したクリニック(中川院)
当院は『大学病院と同じレベルの治療を気軽に受けられる皮膚科』を目指しスタートしました。
今では、国内の診療ガイドラインに載っていないような最先端の治療にまで目を向け、海外の論文も積極的に学び、実際の診療に取り入れています。
「本気で患者様を治す」プロフェッショナルでありたいと、常に努力しています。
と同時に、以前私が考えていたような『質の高い医療』を追求するだけでは、本当に患者様に必要とされるクリニックにはなれないと、今は考えています。
症状が落ち着き、効果のある治療が明確になれば、患者様にとっては他院での継続治療も可能になることもあるのです。
処方される薬や行われる処置が同じでも、「またこのクリニックに行きたい」と思っていただける場合と、「もう二度と行きたくない」と感じさせてしまう場合があります。
医師がどれだけ高度な治療を提供しても、受付の対応ひとつ、看護師の何気ない声掛けひとつで、患者様が「またここに来たい」と思えるかどうかが決まってしまうからです。患者様が笑顔になり、私たちの心も豊かになる。そんなクリニックを本気で実現するために、私が今、最も力を入れているのが「人材育成」です。
プロを育てる 私たちの『人材育成』

プロとは医療スキルだけでなく、社会人としてのスキルも磨く目の前の患者さん、仲間、チームワークを大切にすることで、より高いレベルのプロになれるやりがいがあり笑顔あふれる明るい職場にする
この思いで、わたしたちは日々実践し、上昇志向で同じゴールを目指しています。
仮に現在の給与が良くても、役職があっても、実力が伴わなければ年齢を重ねると共にそれを維持するのは困難となります。逆に実力があればいろんな場面で「安心できる人生」を手に入れられます。
当院では、まず「プロフェッショナルなスキルを持つ」、次に「マネージメントやリーダーシップのスキルを持つ」人材育成を目指しています。まず自らが実力をつけ、その次にそれを仲間に分かち合う事が大切です。
当院では、スタッフ一人ひとりが「プロ意識を持った医療人・社会人」として成長できるよう、さまざまな研修制度と教育体制を整えています。
月に1回の理念研修をはじめ、新人スタッフへの社会人研修、リーダー研修、院内勉強会、動画研修・マニュアルに沿った先輩からの実地指導、さらには外部セミナーへの参加など、座学と実践の両面から学びを深める仕組みがあります。
また、日々の業務での実践経験(アウトプット)により、知識を確かな力として身につけていきます。私たちは「自分で目標を立て、自らの行動に責任を持ち、自分との約束を守る」姿勢や日々の訓練が本当の実力を育て、『プロ意識を持ったチーム』になれると考えています。
チームで「人生」に寄り添う
当院で最も大事にしているのは「チーム全員が本気で患者さんを治すことに、やりがいを感じる集団である」ことです。
患者様は、外見のコンプレックスや痒みなど肌に関する悩みを持って来られます。ただ病気の治療をするのではなく、相手の表情を見て「解決したい問題は何か」「どんな未来をイメージしているのか」を聞いたり感じ取り、信頼関係を築くことが大切だと考えます。
そのためには、自分が皮膚科・美容皮膚科のプロになり、仲間と一緒に学び、成長する。仲間を支援する。そんな考え方を大切にしています。
医師、看護師、美容カウンセラー、医療クラーク、医療事務、総務、人事、マーケティングなど全てのスタッフがミッション・クレドを共通の考え方とし、チームで患者様に向き合っています。私たちは「素直である」「あいさつをしっかりする」「約束を守る」という人間力を重視し、感謝を伝え合うサンクスカードや、定期面談を通した成長のサポートを行っています。
同じ思いを共有できる、あなたへ
ここまで、私が大切にしている想いをお話ししてきました。
もし、この話を聞いて少しでも心が動いたり、「自分もそんな場所で働いてみたい」と感じていただけたならうれしく思います。私は、あなたのような「同じ思いを共有できる仲間」と一緒に働きたいと願っています。
私たちが目指しているのは、単に肌を治すだけの場所ではありません。患者様に長く寄り添い、人生をより良いものに感じてもらうこと。そして、私たち自身も医療のプロとして成長し、健やかで幸せになることです。
そのためには、医師、看護師、受付、事務、そして全ての専門部署のスタッフが同じ方向を向き、チームで患者様に向き合う力が必要です。人材育成を通じて、私たちは一人ひとりが「人生を診るプロ」として、患者様の人生を明るく照らすチームであり続けたいと考えています。
私たちの挑戦は、まだ始まったばかりです。これから先の10年、新しいクリニックの歴史を共に作っていきませんか。
ビジョン
『2029年までに名古屋で皮膚科といえば「あつた皮ふ科・美容皮膚科クリニック」と言われるような存在になる』

現在、患者様の数は、右肩上がりに増加しており、現在の1院では手狭になることが予想されます。
そのため、2027年秋に、2院目の開設(昭和区御器所)を計画しております。
私たちは、患者様に笑顔で接し、真摯に病気と向き合い、みんなが健やかで幸せになることを日々意識し、共有し、実践しています。
そうした姿勢が、「ご紹介」や「口コミ」という形で広がり、患者様だけでなく、スタッフとのご縁にもつながっています。大変ありがたいことです。
患者様は、「近いから」「薬が欲しいから」ではなく、「あつた皮ふ科・美容皮膚科クリニックで診てもらい、安心したいから」という理由で受診してくださるクリニックを私たちは目指しています。そしてスタッフもまた、「感謝される場所で、誇りを持って働けている」と実感できる職場づくりに日々取り組んでいます。
成長したい、何かを成し遂げてみたいと思う方、「ミッション・クレド」に共感し、ご賛同頂ける方はぜひエントリーフォームにお進みください。
あなたにお会いできる事を心から楽しみにしています。
あつた皮膚科・美容皮膚科クリニック 院長 佐々木良輔


